100形

谷津線専用電車

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▲半鋼製のまま入線した101~103号車。長期間の使用を想定していなかったため、リニューアル等は行われていない。

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▲京成時代に全金属車体への更新、新京成時代に特別修繕が行われ、習志野都市高速鉄道に譲渡された104号車。末期は2700形と連結して運用された。

あらまし

谷津線(開業時は谷津湾岸線)は、当初津田沼から谷津・谷津干潟(埋め立て)・茜浜・幕張新都心の一部を経由する計画であったが、谷津干潟の埋め立てが進まず(そして後に中止となる)、あくまで暫定的なものとして1981年に津田沼から谷津干潟手前の谷津遊園前まで線路が敷かれることになった。この時に用意されたのが100形である。

100形の経歴

100形は元をたどると、1926年に登場した京成の電車で、1963年から1967年にかけて新京成に譲渡され、1979年より廃車が発生していた。

100形は京成系列としては750形以来のまともな中古車であった。それまでは50・20形のような小型な車両か、そもそも余剰車が出なかった時期が長く続いており、お金がなかった習志野都市高速鉄道は車両の調達に難儀していた。そのため、近隣かつ軌間が同一の新京成から中古車が出たことは、まさに朗報と言える出来事であった。

習志野都市高速鉄道では、1979年に廃車となった3両(この他もう1両を部品取りとして購入)と1983年に廃車となった1両を購入している。番号は入線の際に101~104と連番になるよう改番された。

入線後は谷津線延伸までの繋ぎとして位置付けられた。1979年に廃車となったグループは半鋼製のままであり、習志野都市高速鉄道内でも更新を行う計画がなかったことから、短期間の使用を前提としていたことがうかがえる。また1983年に購入した車両については新京成時代に全金属車へ更新されていたことから、習志野都市高速鉄道内で特段の更新を行う必要はなしとされたことから、いずれの車両も大掛かりな更新は実施していない。

検査体制

この時の谷津線はあくまで暫定的な形態とされたことから、開業時は環状線その他の路線と接続しておらず、車両の検査をどこで行うかという問題が発生した。

当初は埋め立てが行われた際に、路線延伸と谷津湾岸線用の車両基地を置く予定であったが、その前提となる埋め立てが既に暗礁に乗り上げていた。

そこで谷津干潟埋め立てを必要としない船橋港線をサブの湾岸アクセスルートとして環状線と繋げ、当面の検査は鷺沼台車両基地で行うことになったが、こちらの開業は1986年と5年のラグがあった。

結局どうしたのかと言えば、遊園住宅駅に臨時の部署を置き(鷺沼台車両基地遊園派出)、工場に入れる必要のない点検・検査については遊園住宅駅で実施し、入れる必要のあるものについては、陸送して鷺沼台車両基地で検査を行うことになった。

こういった経緯から、運用は既存路線と別の枠組みとなり、また不足の事態に備えて予備車は別に用意されることになった。

運用と予備車

谷津はそれほど大きい街ではなく、また100形は単行運転が可能であったことから両数は1両とした。ただし利便性の観点から本数を確保することになり、朝が毎時6本、昼が毎時3本、夕方は4本とされた。

運用としては、朝のみの運用と朝から終電まで終日運行する運用の二つで上記の本数を賄えることから、朝は2運用(2両)、昼以降終電まで1運用とすることになった。この他に予備車を1両用意することになったので、谷津線には3両が配置されることになった。

運用開始後(1981年)

以上の経緯から谷津線開業に合わせて新京成から100形4両を購入。4両中1両は部品取り車両としたため入籍せず、3両(101~103)が使用された。

2両運転の開始(1982~1986年)

当初は1両での運行を開始した谷津線であったが、開業とともに利用者が増えたため、1982年のダイヤ改正から常時2両編成とすることになった。これにより車両が不足することになったので、急遽1000形2両編成1本が谷津線に転じ、5両体制となった。2両化以降の谷津線は2両編成2運用(計4両)に予備1両を足して5両というわけである。

しかし1000形は2両固定編成であり、100形のように1両単位で運用することができなかった。そのため1000形が検査等で運用を抜けると3両となるため、再び車両繰りが厳しくなった。そこで1983年には新京成から追加で1両を購入し、1000形と合わせて6両体制とした。なおこの時に導入した車両は新京成在籍時に片運転台に改造されていたことから、習志野都市高速鉄道入線時に両運転台に改造し直している。

1983年以降は在来車の冷房化が開始されたが、100形は冷房化の対象外とされた。更に1000形冷房車が谷津線に配置されると、そちらが終日使われるようになり、100形の出番は激減したようである。

そのため、当時環状線に非冷房車がそこそこ残っていたことから、環状線の車両と100形をトレードして谷津線の冷房化率を100%にする話もあったようだが、既存車両と制御段数が異なり混用できなかったことから1986年まで谷津線で運用された。

2700形との連結(1986~1996年)

谷津線延伸が事実上頓挫し、湾岸方面へのアクセスは船橋港線で代替することになった。しかしわずか2キロの谷津線を孤立させたまま残すのは不合理であったため、谷津線と船橋港線は直通運転を行うことになった。

これに合わせて2700形が新造され、谷津線の車両、すなわち100形についても全車両を置き換える予定であった。しかし運用の都合上、2700形は1編成のみ4両編成を組み環状線で使用する必要が発生した。そこでちょうど余剰になった100形が連結相手となり、100形と2700形とで連結運転が行われることになった。また100形は自動ブレーキ、2700形は電気指令式ブレーキでもあったので異種ブレーキの併結試験を兼ねていたという。

残存対象となったのは1983年に購入した104号車で、電装解除とブレーキ読み替え装置の搭載が実施された。

これにより100形は2700形のT車同等となり2700形の回生ブレーキを残すこともできたが、当時の環状線は回生ブレーキ未対応であったことから、空気ブレーキのみの作動となっていた。

さて、実際の運用であったが、2700形からブレーキをかける場合は、電気指令式ブレーキ(デジタル信号)を100形の自動ブレーキに変換する操作となる。動作としては、2700形のデジタル信号を100形に搭載している装置で読み替え、機械的動作に変換してブレーキをかける。基本的に2700形から運転する場合は変換等でタイムロスが発生する以外はあまり問題が起きなかった。

一方、100形から操作する場合であるが、マスコンの段数は2700形に合わせられた一方、ブレーキハンドルはそのままとしたため、自動ブレーキでの操作となる。動作としては、100形のブレーキ操作で管内の空気圧を変化させ、それを読み替え装置が感知し、近似のブレーキ圧となるデジタル信号を2700形に送り、2700形のブレーキを作動させる。

こちらも一見問題がないように見えるが、「近似」というのが厄介な点であった。というのも電気指令式ブレーキは機構上、飛び飛びの圧力しか掛けられないのに対して、自動ブレーキは(技術を要するが)任意の圧力にすることができた。そのため100形のブレーキ圧力によっては圧力が一致せず、2700形の圧力が100形の圧力よりも小さくなる場合があり、その際には込め直す必要があった。これには自動ブレーキ派のベテラン運転士も匙を投げ電気指令式派に転向したほどである。[要出典]

とはいえ、環状線で運用する場合、環状運行ゆえに営業運転中に向きが入れ替わることはまずない。そのため、100形との連結中は2700形側が先頭になるように運用が組まれていた。ただしダイヤ乱れ時には予定にない折り返しが発生し、100形が先頭になることもたまにあったという。

この措置は1996年まで続けられ、2700形が4両編成となったことで、連結は終了した。

2700形連結中の編成

←津田沼 (東袖ヶ浦基準) 鷺沼台→
  • 2711+2751+2721+104

  • 最終更新:2017-02-23 03:32:32

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