1000形

いろんなものを足した車両

基本性能

  • 編成:1000(Mc)+1050(Tc)
  • 車体・ドア:全長18m×全幅2.8m・3ドア(両開き)
  • モーター・ギア比:142kW×4・2.87
  • 制御器
    • 更新前:電空カム式(直列5段、並列4段、弱め界磁1段)
    • 更新後:電動カム式多段式抵抗制御(直列12段、並列12段、弱め界磁3段)
  • 起動加速度:1.6km/h/s
  • 最高速度:95km/h

導入の経緯

1967年に津田沼~東袖ヶ浦間が開業し、順調な出だしとなった習志野都市高速鉄道であるが、1971年の津田沼~東習志野間開業時も1967年の時と同様に中古車を調達することになった。しかしこの頃の京成・新京成は余剰車が出ておらず、京急にも条件に合う車両がなかった。それでも新車導入の予算などなかったので、当時の習志野都市高速鉄道の職員は必死になって中古車を探したという。

当初は国鉄30系電車を購入し台車のみ新造することも考えられたが、台車は高価であったので早々に取り下げられた。

そんな中、1968年に1435mm線の営団銀座線で1000・1100形が引退となった。この情報を聞きつけた職員が営団と交渉したところ、営団からOKが出たため、この車両を譲受し使用することになった。

運行計画の検討(1968~1970年)

路線開業は1971年であり、この時に必要な車両数は2両編成11本(22両)であった。ここから50・20形2両編成8本分を引けば3本だけでよいことになるが、50・20形は当時の時点でも輸送力と性能に問題があったことから、早期に置き換えたかったようである。

ただし、計画を策定して実際に改造するまでにあまり余裕がなく、1971年までに11本を揃えるのは厳しかった。そこで、1971年までに2両編成3本を改造し、50・20形2両編成8本とともに運行を開始、残りの分は1972年に2両編成4本、1973年に2両編成4本と改造していくことで対応することになった。

ただし1000形は21両しかいない上に、営団で保存・試験車両として使う計画があった。そのため、そのままでは不足することから、一部を1100形から補った。また形式は京成・新京成との重複を避けるため、両者で未使用だった1000番代に改番されている。

こうした計画・状況を踏まえ、1970年に鷺沼台車両基地に銀座線1000形14両と1100形8両が入線した。

改造の実施(1970~1973年)

ところで、銀座線は第三軌条かつ600Vで、銀座線1000・1100形の端子電圧も600Vである。そのため、架空電車線式の習志野都市高速鉄道で使うにはパンタグラフの設置が必要であるし、同時に1500Vなのでうまく電圧を合わせる必要もあった。

この時、1両にモーターを3台搭載する1C3M(端子電圧500V)とする案も考えられたが、1000・1100形は1両に2台しかモーターを搭載していなかったので不足が見込まれた。そこで、国鉄とも交渉を行っていた関係から、パンタグラフと足回りは当時廃車が進んでいた72系電車のものを流用することになった。

車体については、銀座線1000形の車体(全長約16m・全幅約2.6m)を流用する案、国鉄電車の車体(全長17m又は20m・全幅約2.8m)を流用する案、はたまた18m級や20m級の車体を新造してしまう案もあった。

この頃は京成・新京成ともに全く余剰が出なかった上に、習志野都市高速鉄道自体、車両新造の予算も出なかった時勢である。そのため「いつまで使えるか」といった寿命的な面よりも、「いつまで使わざるを得ないか」というような、今後の車両導入が円滑に進むかどうかを懸念していたようである。

つまりここで古い車体のままデビューしてしまうと、最悪数十年間使わざるを得ない可能性もあり、旅客サービスに相当なハンデを負う可能性があった。また銀座線1000形が造られた1920年代から1960年代の間に技術が大幅に進歩し、銀座線1000形よりも軽く18m級の車体を造れるようになった技術的要因などから、車体は新造とすることになった。

新造された車体は全長18m・全幅2.8m・両開き3ドア(戸袋なし)の車体で、京成3300形の車体(二次車・登場時)に相当する。この車体新造後の自重は33.0tで、銀座線時代に全長約16m・全幅約2.6mの小柄な車体で34.8tと重かったことを踏まえれば、大幅な軽量化を達成したといえよう。なお20m車とすることも考えられたが、それだとギリギリ自重をオーバーしてしまう(約35t)ことから18m車となった。

まとめると、台車・台枠は銀座線のものを、足回り・パンタグラフは国鉄72系電車のものを流用し、車体のみ新造することでまとめられた。すなわち、モーターはMT40(142kW)、制御装置は電空カム式のCS5、ブレーキは自動ブレーキとなり、1M1Tの編成を組成した。また、車内の照明等には交流電源を用いることになったので、交流MGを新調している。

ところで、この一連の改造を行ったのは大栄車輌であった。大栄車輌は主に京成の車両更新を引き受けていた会社で、このような旧型車両の更新工事を得意としていた。また、当時は工場が津田沼と近くにあり、1970年では京成の車両の更新が行われず同社に余裕があったことから、1000形の改造を受注したようである。

ちなみに、登場時の京成「赤電」に準じた外観ながら、足回りは前時代的なつりかけ駆動であったことから、一部のマニアからは「ニセ赤電」と呼ばれていたらしい。[要出典]

営業運転開始後(1971~1973年)

1971年に2両編成3本が完成し営業運転を開始した。

続く1972年から1973年までに2両編成8本の改造が終了し、2両編成11本が出揃った。これにより、50・20形は全車両が置き換えられた。

他形式の増備(1973~1975年)

さて1000形運行開始前夜には、今後もまとまった車両が入るかどうか懸念していた習志野都市高速鉄道であったが、1973年に京成750・2250形が20両廃車となったことで、この問題はあっさり解決してしまった。というのも、この時点で1000形11本と750・2250形10本の陣容となり、これらの車両のみで今後開業する路線の車両を賄う予定でいたようである。事実、運用数については1990年代頃の環状線系統が15運用であり、当時の想定としてはそこまで外したものではなかった。

しかし、これは「2両編成で運行するならば」の話である。これに並行して利用者の増加も進んだ結果、4両運転を実施せざるを得なくなり、この方針は見直されることになる。そして4両運転を行うとなると、当然車両が不足するため、更に車両を購入しないといけない。

そういった経緯から、当初は導入しない予定であった600形8両と制御車4両、計12両を購入している。これらの車両と750・2250形を合わせると32両(2両編成16本)となる。1000形が2両編成11本であるので、計27本体制とする算段であった。

三形式併結対応改造の実施(1975~1978年)

こうして車両を揃えたのは良かったが、1000形、750・2250形、600形はブレーキ方式こそ同一(自動ブレーキ)であったものの、モーターも制御器も異なり、そのまま連結するには乗り心地上問題があった。

理想的には制御器とモーターの両方を統一できればいいが、予算の都合上それは叶わなかったので、制御器を統一し、ブレーキを一部変更することになった。

制御器は27段(直列12段、並列12段、弱め界磁3段)のものを新調。基本的には新造しているが、750形については種車がそこそこ新しいことから、一部パーツを流用している。なお発電ブレーキは省略している。

またブレーキ方式はほぼ同じであったが、長編成化によりブレーキにラグが出ることから電磁弁を搭載している。これにより、各車両が極力同じタイミングでブレーキがかかるようにセッティングされた。

以上の仕様で各形式の諸改造を行うことになったが、設備の都合上一年で6~7編成しか改造できないので、すぐに統一できるわけではなかった。また、1976年には三山~北習志野間が開業する予定で、14本(12運用・予備2本)が必要となり、不足する3本を優先的に改造する必要があった。そこで1975年に750形を2両編成3本へ改造し、残りは順次改造していく方針が取られ、4両運転は対応車が揃い次第始めることになった。

以上から、
  • 1975年には750形2両編成3本、1000形2両編成4本
  • 1976年には750形2両編成3本、1000形2両編成4本
  • 1977年には750形2両編成3本、1000形2両編成3本
  • 1978年には750形2両編成1本、600形2両編成6本
    • 制御車4両は600形に編入
というようにして改造が行われることになった。

谷津線への出張(1981~1986年)

1981年に開業した谷津線であるが、この時は他の路線と線路が繋がっていなかったため、専用車両となる100形が3両配置された。

当初は単行での運転だったが、国鉄津田沼駅に直接アクセスできる利便性から利用者が増加し、開業翌年のダイヤ改正から2両編成で運行することになった。この時、2運用であった谷津線ではどうあがいても車両が足りないため、奇数本とやや半端な存在であった1000形2連1本が谷津線に配置された。

谷津線の1000形は特定の編成が常駐し続けた訳ではなく、検査等で谷津線から離れると編成が入れ変わることもあった。また1983年に後述する冷房化が始まると、谷津線でも冷房車が運用されることもあった。1000形は原則として予備車的な立ち位置で、朝ラッシュのみの運用が多かった。しかし冷房車が入ると一転して、100形を押し退け終日運用に入っていたという。

この措置は線路が繋げられた1986年まで続けられることになる。

冷房化の実施(1983~1985年)


1980年代に入ると在来車両の冷房化が検討されるようになる。当時は赤電にようやく冷房化が行われ始めていたが、それでも青電が残存していた。更に京成の経営が青息吐息であったことから譲渡車による冷房化が望めず、せめて自社車両だけでも冷房化を進めていくことになったのである。

600形は台車の構造上冷房化が困難であったため、750・2250形と1000形にのみ冷房化が行われることになった。

ただし冷房化を行うと冷房装置搭載により車体の補強の他、重たいMGを搭載する必要があり、この点の対応に苦慮していた。そこで1980年代に実用化された、小型・軽量なSIVをMGの代わりに採用した。また冷房装置は集約分散式(3基搭載)のものを使用することで重量が一ヶ所に集中しないようにしている。

当初は、京成の新型車両(3500形、3600形)同様4基搭載にする予定であったが、重量などの問題から3基搭載とした(ただし、それでも重量が33tから35tに2t増えている)。これにより、少なくなった分の冷房を有効に活用するため、冷気が逃げやすいドア直上に冷房装置が置かれた。ただしパンタグラフを搭載している部分については、パンタグラフと干渉することから、さすがにドア直上には置けず、位置がずれている。

この方式での冷房化は1983年より始まり、概ね年間4本(1000形と750・2250形を各2本ずつ)のペースで進められた。

しかし1986年に京急から冷房付車両を購入することになったため、1985年に1000形に対しての冷房化は注視された。一方、750・2250形への冷房化は続けられ、最終的に1000形は11本中6本が、750・2250形は11本中10本が冷房車となった。

京急車の入線による変化(1988年)

(以下準備中)

  • 最終更新:2017-03-05 09:38:10

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