750・2250形

棚からぼたもち

naraden109.png
▲電動車(750形)が丸妻であるのに対して、制御車(2250形)は切妻と、編成の前後で顔が異なるのが特徴であった。これは2250形が中間に入る前提で設計され、簡易運転台的な意味合いが強かったためだと思われる。

基本性能

  • 編成
    • 703形:703(Mc)+2204(Tc)
    • 750形:750(Mc)+2250(Tc)
  • 車体・ドア:全長17.15m×全幅2.744m・3ドア(片開き)
  • モーター・ギア比
    • 703形:110kW×4・4.875
    • 750形(冷房化前/三菱):110kW×4・5.27
    • 750形(冷房化前/東洋):110kW×4・4.11
    • 750形(冷房化後):120kW×4・5.6
  • 制御器:多段式抵抗制御(直列12段、並列12段、弱め界磁3段)
  • 起動加速度:2.0km/h/s
  • 最高速度:85km/h(環状) 100km/h(湾岸)

導入の経緯(1970~1973年)

1970年に営団から1000形を22両購入した後、京浜急行から230形を所要数を購入する予定であった。しかし、1972年に京成から750・2250形が廃車となったことで方針を変えることになる。

750・2250形は新造初年が1954年で、この時点での経年が15~18年と、中古車としては新しい車両であった。またTD・WN駆動で他のつりかけ車とは一線を画しており、しかも新京成が購入しなかった。これらの要因から予定を変え、750・2250形全車20両を購入することになる。

1970年代初頭の段階で、いわゆる新性能電車(ここではつりかけ駆動以外の電車を指す)を中古車でまとまった数を購入できたのは幸運というほかない。事実、習志野都市高速鉄道では1986年に京浜急行から600形を購入するまで中古の新性能電車の導入例はないし、他社でも珍しい事例と思われる。

編成の検討(1973~1975年)

方向転換の実施

京成在籍時の編成は、

  • 750+2250+2250+750

といった組成で、制御車(2250形)を電動車(750形)で挟む編成であった。

当時の習志野都市高速鉄道では2両編成が基本であったため、2両編成での運用を念頭に置いて編成が検討されることになった。

もちろん2250形には運転台が付いているので、そのまま切り離し、

  • 750+2250
  • 2250+750

という編成でも良かった。しかしフィーリングを揃えるため、MTの配置は統一することになった。そのため、逆向きとなる半数の車両については、方向転換を実施することになった。

車番

車番は京成在籍時のものをそのまま使う予定であった。習志野都市高速鉄道は京成への乗り入れを行っていないし、京成からも引退した車両のため、そのまま使用するのは問題ないはずであったが、京成特有の車番の振り方から、改番を実施することになった。

それは「上野向き偶数の法則」で、2両に分割した時に電動車と制御車の下一桁が揃っていなかったことである。一例を挙げると、京成在籍時は以下のような編成を組んでいた。

  • 751+2252+2251+752

方向転換は決まっていたので、それを考慮し2両に分割すると、

  • 751+2252
  • 752+2251

となり、電動車と制御車で下一桁が揃わず、管理上不都合である。そのため電動車側を基準に制御車側を改番し、下一桁を統一することになった。改番は以下のように行われている。

京成在籍時→NCRR入線後
  • 2252→2251
  • 2251→2252
  • 2254→2253
  • 2253→2254
  • 2256→2255
  • 2255→2256
  • 2258→2257
  • 2257→2258
  • 2260→2259
  • 2259→2260

なお、500形600形では相方となるクハを+2000となる形式、すなわち2500形や2600形としていたが、750・2250形では特にそのようなことは行われていない。これは、600形のように制御車の種車が多形式に渡ったのとは異なり、750・2250形では電動車と制御車が一形式ずつと関係性が明確であり、わざわざ番台を変えるほどのものでないと判断されたためだと思われる。

機能の検討(1973~1975年)

足回り

足回りについては、輸送人員の伸びから4両運転を行うため、1000形との併結を考慮することになった。この時、1000形のCS5(電空カム式、直列5段、並列4段、弱め界磁1段)に合わせることも考えられたが、電空カム式は誤動作が多かった上に、そもそもこちらは段数が少なく乗り心地もあまり良くなかった。

そのため、むしろ制御系は750形に合わせた方が良いと判断され、1000形に対して更新改造が行われることになる。

なお、この段階ではほぼ無改造であり、補機類は後年の冷房化改造までMcに集中搭載していた。

車体

当時の時点でそこまで老朽化していなかったことから大幅な更新はせず、リフレッシュ程度の更新に留めている。また、この頃は他社で冷房化が進められた時期であったことから、冷房化も検討されたが、1000形の制御器交換に予算が割かれたことから、この時は見送られている。

運行の開始(1976~1978年)

1975年に3本が改造され、翌年の1976年の三山~北習志野間開業にあわせて運行を開始した。その後も改造が進められ、1978年までに2両編成10本の改造が終了した。

  • 各年毎の改造本数は以下の通りである
    • 1975年:2両編成3本
    • 1976年:2両編成3本
    • 1977年:2両編成3本
    • 1978年:2両編成1本

谷津線が開業した1981年は特に動きはなく、専ら環状線系統で使用された。

703+2204の編入(1982年)

1982年に谷津線の2両化に伴い、11本と半端であった1000形が谷津線に転出した。

その後、この分の補填と冷房化に伴う予備車確保のため、700・2200形(703+2204)を購入した。この車両は京成在籍時に事実上750・2250形の試作車として新造され、700形よりは750・2250形に近い車両であった。

そのため703+2204は750・2250形に編入されたが、下一桁が揃っていない京成在籍時の番号のまま習志野都市高速鉄道に入線した。

これは、当時新京成で走っていた700形を購入するかどうかを決めかねており、購入した場合の改番ルールが定まっていなかったこと、更に703+2204編成の駆動方式が750形と同様の台車装荷式であったことから、改番を行わなかったという。一応703形という区分はあったようだが、あまり使われなかったという。

1986年までは、1000形、750・2250形、600・2600形と共通で使用されていたが、1000形や750・2250形の冷房化後は編成が固定化されるようになり、

余談であるが、2700形の導入が決まったこともあり、700形が導入されることはなかった。

冷房化の方針策定(1978年)

話は遡るが、1970年代に入ると国鉄や京成でも冷房車の導入が開始されるようになり、習志野都市高速鉄道内でも冷房化の検討が始まっていたようである。とはいえ、当時の時勢からいって新造車自体が導入困難だったこと、更には「中古車に冷房化改造は困難」という考えもあって、積極的に冷房化する方針にはならなかったようである。

しかし、1978年に新造された新京成8000形の登場により、方針が大きく変わることになる。

これまで習志野都市高速鉄道は、京成から「お下がり」をもらっていた新京成を自らと同列に見ていた。実は1971年に新京成は新車を導入していたが、そのスタイルは京成の赤電に似通っており、また依然として中古車の導入が続いていた。

そのような中で、新京成がほぼオリジナルの、しかも冷房車である8000形を導入したことに、当時の習志野都市高速鉄道はかなりの衝撃を受けたと言われる。

これを受けて、(1)何としてでも新造冷房車を造ること、(2)既存車両の冷房化を推進すること、(3)可能であれば中古冷房車を導入すること、といった方針が定められた。特に(1)については、当時の社長である不渡亜梶が「新京成8000形に負けない新車を造ろう」「金の工面はなんとかする」と言うほどであり、新京成8000形の影響が伺える。余談だが、この新造冷房車は後に船橋港線用の2700形として登場することになる。

このようにして、習志野都市高速鉄道の冷房化が本格的に動き出した。

性能強化の実施(1983~1987年)

既存車両の冷房化は、1000形と750・2250形を対象とすることになった。つりかけ駆動の車両は、台車やモーターに着目するとどの形式も車齢が似たり寄ったりであったが、モーターが強力で、車体が新しい1000形が選定されたようである。750・2250形については新造から30年を迎えていたものの、まだまだ使えるということで冷房化の対象となった。

1000形に関しては、元々重たい国電を走らせるために強力なモーターであったことが幸いして、1000形に冷房化を施しても35tに収まったことから、性能面での強化は行われなかった。

一方750形は、ギア比が4.11(三菱車)と高速よりで、モーターも定格1600rpm、最高4000rpmとやや高速よりのセッティングであり、トルクがやや心細かった。そのため、冷房化後の重量増で加速力低下が懸念されたことから、750形では性能面の見直しも行われることになった。

当初、冷房化の際には2700形と同じ足回り(界磁チョッパ制御・電気指令式ブレーキ化)とすることも検討されたが、これをしてしまうと足回りが総取り替えとなってしまい、コストがかかってしまう。そのため、いかに手間をかけず、750形を更新するかが課題となった。

とはいえ、原モーターのまま性能向上を行うのも困難であった。ギア比を上げて高回転化改造を施すという案もあったが、そのためには補償巻線を巻く必要があり、メンテナンスにディスアドバンテージとなることが予想された。また750形は三菱と東洋でセッティングが大きく異なり、これらを統一していく必要性もあった。そこで、モーター交換とギア比の変更を行うことになった。

最終的に、750形全車両を「MB-3021AN」と称するモーターに交換するということで対応した。このモーターは名目上は750形が元々搭載していたMB-3021Aの改良型としているが、実態は新たに設計し直したモーターであると言われている[誰?]。

MB-3021ANでは、10kW出力を向上した120kWモーターとし、トルクを向上した。定格回転数は1630rpmとほぼ同じであるが、回転数は4320rpmまで向上した。これにより、ギア比を上げてトルクを保証しつつ、回転数を上げることで高速運転も対応することが可能になった。ギア比は改造前の4.11から5.6となった。なお東洋車に関しては最高回転数が4,500rpmだったので、こちらは若干低下した形となった。しかし、整流等の問題から実際にこの回転数で使うのは困難だった。

また750形は三菱電機と東洋電機のモーター・継手を併用していたが、改造後は三菱電機のものに統一された。したがってWN駆動である。

冷房用の補助電源はSIVを採用し、従来のMGを置き換えた。750形では制御器や補助電源をM車に集中搭載していたが、さすがにギチギチということもあり、コンプレッサーとセットでクハの2250形に移設された。冷房装置は集約分散式のものを3台搭載としている。

この他、どさくさに紛れてブレーキ方式が自動ブレーキから発電制動併用の電磁直通ブレーキ(HSC-D)となった。この頃にはほぼ4両で編成が固定化されたため、ブレーキ方式を変更しても問題なしと判断されたためである。

なお、750・2250形は運転台を撤去せず2両編成を維持したが、これは将来湾岸系統に転用し、容易に4両から6両に組み替えられるように配慮したためである(ただし実際の6両化時には京成から購入した車両が充当された)。

1987年までに、703+2204編成を除く2連10本に冷房化が行われた。

余り物同士の組成(1986~1988年)

1986年には船橋港線が開業した。同時に谷津線の全列車が船橋港線に乗り入れ、2700形で運行することになったため、100形や谷津線に出張していた1000形はこの時に運用を喪失した。

この時、元々更新を行うつもりがなかった100形はともかくとして、1000形は車体更新をしており、当面は使う予定だったので環状線系統で再度使用されることになる。

これにより1000形が2連11本、750・2250形が2連11本となったが、お互いに奇数本となり、4連を組成した時に1本ずつ余りが生じた。この余りである1000形1本と703+2204編成とで4両編成を組成した。

  • 1011+1061+703+2204

この編成は1986年に組成された後、1988年の2000形導入の際に置き換えられたが、新都心湾岸線に転用するため、1991年の開業まで保留車となった。

703+2204編成の転用と廃車(1991~1993年)

1991年の新都心湾岸線開業の際、1011+1061編成と703+2204編成の2両編成2本に分割され、茜浜~新都心西口間のローカル運用に充当する予定だった。しかし、利便性を考慮し、津田沼に乗り入れることになり、2700形と同一の3両編成に組み替えて使用することになった。これだと3両編成1本しか捻出できないが、1990年に余剰となった1000形4連1本を3両編成として、もう1本を捻出した。

  • 703+1011+1061
  • 1001+1002+1051
2204は保留車

その後、1993年に運行を見直すことになり、一部を除く津田沼乗り入れを廃止し、2両編成とすることになった。

これにより1000形側で2連2本を確保できることから、1本だけの特殊な車両が仇となり、703+2204編成は1993年に廃車となった。

湾岸方面への転用(2004年)

3200形では2両編成が組成され、3200形の新都心ローカル転用が注目されていた。しかし、3200形自体が既存車両の置き換えでいっぱいいっぱいということもあり、2連組成可能な750・2250形が新都心ローカル用に残留することになる。2004年に置き換えられた2連2本(751+2251、752+2252)が転用された。この時、習志野都市高速鉄道では初となる「ワンマン運転対応化改造」が施された。

環状系統からの撤退(2005~2006年)

2005年には4連1本が、2006年には4連3本が置き換えられたことで、750・2250形が環状系統から撤退した。以降の運用は新都心ローカルのみになるかと思われた。

食品荷電への転用(2008年)

2008年に津田沼駅南口の旧サンペデックを活用する形でモリシア津田沼がオープンし、地下1階の食料品売場にイオンが進出することになった。これにより、イオンの食品工場(東高瀬)と店舗(津田沼)が船橋港線で結ばれることから、工場で作られた食品を習志野都市高速鉄道の電車で輸送する「食品輸送列車」構想が浮上した。これに対応する車両として、750・2250形2連1本が残留。新都心ローカルの車両と共通で使用された。

試験運行の結果、好調であったため輸送が継続された。車両も他に適切な形式がなく、そのまま750・2250形で運行された。

この時点では、新都心ローカル用の2連2本と食品輸送列車用の2連1本、計2連3本が残存していた。

引退へ(2013年)

新都心西口~イオンモール間開業の際に利用者の増加が見込まれたことから、2両運転を終了し4両編成に統一することになった。また、この頃の4両編成は高加速車に統一されており、今更750・2250形を延命する理由もなかったので、イオンモール延伸をもって置き換えられることになった。

また食品輸送列車についても一般車に置き換えることになり、750・2250形はここに廃系列となった。

(文:総武通快)

  • 最終更新:2017-08-25 22:28:51

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード